著名な研究者がエコシステム作りの一翼を担うボストン

連載(日経バイオテク)

日本は、2022年を「スタートアップ創出元年」と位置付け、岸田政権は「スタートアップ育成5か年計画」を発表しました。国全体で、スタートアップの重要性が認識されたことで、今後、日本のバイオ業界がイノベーションを生み出すエコシステムを構築できるかどうか、私も非常に興味があります。

私が、日本のアカデミアで医学研究に従事していた頃は、「産学連携」という言葉は存在していたものの、オープンイノベーションを進めようというような環境では決してありませんでした。理由は明白で、アカデミアの研究者にとってオープンイノベーションに取り組むこと自体にインセンティブがなかったからです。

大学によって多少の違いはありますが、アカデミア研究者は、主に研究論文の数やインパクトファクター(IF)を基準にしてキャリアを積むことが一般的であり、研究論文がどの程度の研究費を獲得できるか左右する重要なファクターとなります。ただでさえ少ないアカデミアのポスト(助教授、教授)を目指すポスドクや助教であれば、自身のキャリアにとって重要な論文執筆活動に重きを置くのは当然で、オープンイノベーションどころではありません。日本の研究者の方々と話をしている限り、10年が経った今でも、その傾向はあまり変わっていないように思えます。

私が米国、特にボストンに来て、最も驚いたことの1つが、アカデミア研究者の考え方や役割が日本と大きく異なることでした。今回は、ボストンのアカデミア研究者の活躍を事例に挙げ、日米におけるイノベーションエコシステムの違いについて考えてみたいと思います。

米Massachusetts Institute of Technology(MIT)のPhillip Sharp教授は、1993年にRNAスプライシングの発見でノーベル生理学・医学賞を受賞した高名な研究者です。しかし彼は、私が生まれる前の1978年、米Biogen社を共同設立し、取締役会およびサイエンティフィックアドバイザーのメンバーを務めていました。また、2002年には、米Alnylam Pharmaceuticals社を共同設立しており、現在も多くのバイオ企業の取締役を務めています。

米Harvard Medical SchoolのTimothy Springer教授は、2022年に細胞接着分子であるインテグリンの発見でラスカー賞を受賞した著名な免疫学者です。彼は、1993年に自身のアカデミアでの研究結果を基にしたスタートアップ米LeukoSite社を立ち上げ、同社はその後、米Millennium Pharmaceuticals社(現武田薬品工業)に6億3500万ドルで買収されています。成功はこれだけにとどまらず、彼は買収で得た資金の一部を、様々なバイオ企業に投資しており、例えば、米Moderna社の創業投資家としても知られています。ご存じの通り、Moderna社は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のワクチン開発で大成功を収めており、巨万の富を得た彼はForbes誌にビリオネアとして掲載されています。

この2人に共通する素晴らしい点は、成功して得られた資金の一部を数十億円という単位で寄付することで、社会に貢献していることです。例えば、Phillip Sharp教授は、MITのライフサイエンス教育事業やがんの患者団体に、Timothy Springer教授は非営利団体である米Institute for Protein Innovationに寄付しています。こうした寄付によって支えられた活動から、また新たなイノベーションが起こることが少なくありません。つまり、ボストンエリアでは、優秀なアカデミア研究者がイノベーションエコシステムの中で重要な役割を果たしているのです。

Phillip Sharp教授とTimothy Springer教授の事例はほんの一部に過ぎず、MITや米Harvard Universityなど、ボストンエリアのアカデミアで研究する大学教授の多くは、自らが創薬スタートアップの設立者となっているのです。有名教授であれば、複数のスタートアップを立ち上げた、シリアルアントレプレナー(serial entrepreneur)であることも珍しくありません。

日本にも、ノーベル賞やラスカー賞を受賞する研究者は存在し、サイエンスのレベル自体は非常に高いことで知られています。しかし、アカデミア研究者が自身の研究を社会実装に繋げるための活動を行い、かつ、次世代のためにその財産をイノベーションエコシステムに還元している事例は、米国ほど多くないでしょう。

この違いは、なぜ生じるのでしょうか?

1つは、日米における大学でのアントレプレナーシップ教育の環境の違いが挙げられると思います。少なくとも私が日本の大学にいた頃、研究発表会やセミナーなどは多くありましたが、学生やポスドクがアントレプレナーシップに関する情報を得る機会はありませんでした。しかし、米国の大学では、アカデミア研究者を対象として、アントレプレナーシップを育成するためのコースやプログラムが多く存在します。

例えば、Harvard Medical Schoolは、将来起業家を目指す学生やポスドク、研修医などに対して、さまざまなコース、ワークショップ、ネットワーキングの機会などを提供しています。また、Harvard UniversityにはHarvard innovation labsと呼ばれる施設があり、学生にピッチコンテストにチャレンジする機会を提供したり、ライフサイエンスの実験ができる研究室を貸与したりと、イノベーションに必要なサポートを行ってくれます。

日米のアカデミア研究者にとって、インセンティブの大小ももう1つの重要な要因でしょう。前述のように、日本のアカデミア研究者にとっては、論文発表が最優先事項であり、その他の活動は「雑務」になりがちです。一方、米国の大学では、論文発表はキャリア形成にとって一部の要素にしか過ぎません。

例えば、Harvard Medical Schoolでは、IFの高い雑誌に論文を発表するだけでなく、研究成果がどの程度の社会的インパクトをもたらしたかを様々な角度から総合的に判断し、大学内での昇進が決定します。その中には「イノベーション」の項目が含まれており、アカデミア研究者がスタートアップの設立やイノベーターの支援・育成といった活動に積極的に取り組むインセンティブとなっています。また、設立した企業が成功すれば、ストックオプションなどの報酬も得られるので、これが研究者個人へのインセンティブとして機能しています。

日本でイノベーションエコシステムを構築するために、ボストンでのこうした事例が参考になるかもしれません。すべてのアカデミア研究者が、オープンイノベーションのみを目的に研究すべきだとは思いませんが、スタートアップの創出やイノベーションの加速を目指すのであれば、日本のアカデミアのシステムを上手に見直すこともアプローチの1つではないでしょうか。

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